【ぷらちな】『じょしらく』キャラクター/声/フレーム/藤津亮太のアニメ時評‐帰ってきたアニメの門 第9回

[第9回]『じょしらく』キャラクター/声/フレーム

 マンガに詳しい同業者氏たちと話をしていて『じょしらく』の原作とアニメ版の印象の違いになった。

 『じょしらく』は、女の子の落語家たち5人が楽屋でひたすら会話するという体裁で、世の中のアレコレをネタにしているギャグマンガだ。その同業氏者曰く、原作はシャレのきついギャグの印象がまず先立つのに対し、アニメのほうがキャラクターの存在感が強いのだという。アニメだからといってギャグが薄まったりしているわけではなく、むしろより突っ込んでネタを展開している場合があるにもかかわらず、だ。

 「キャラクターもの(キャラもの)」という俗な言い回しがある。あえて説明すると、その作品の訴求点として「まずキャラクターの魅力を前面に押し出した作品」といういうようなニュアンスの言葉だ。つまり同業者氏の指摘は、原作よりアニメのほうが「キャラもの」として仕上がっている、ということができる。

 この差はどこから生まれたのか。その理由は、いくつかの階層にわけることができる。

 まず「企画」の段階。

 アニメは、その企画の最初から「キャラもの」であることを前面に押しだそうとしている。それがよくわかるのは、各話の構成だ。

 本作の各話は3つのエピソードから構成されている、いわゆる「三階建て」になっている。この<三階>のうち、<一階>と<三階>は原作のエピソードを使うが、<二階>はアニメ・オリジナル。5人のメインキャラクターたちが普段の舞台である楽屋を出て、私服で都内各所(東京タワー、浅草、新宿歌舞伎町etc)を周遊するという趣向になっている。

 この<二階>では、ギャグのエスカレートはほどほどに抑えられ、5人の会話の妙のほうがメインに据えられている。5人の個性とそのアンサンブルが生み出す「幸福な時間」がこの<二階>の見どころだ。

 ギャグというのはキャラクターにどこか冷淡になって、一種の人形として突き放さないと成立しない部分がある。だが、作品がキャラクターを突き放しすぎてしまうと、逆に引いてしまう視聴者も増えてくる。ギャグでありながら、作品世界に「キャラもの」としての愛着を感じてもんらうためには、<二階>のエピソードは欠かせない役割を果たしているのだ。

 原作には「この漫画は女の子のかわいさを/お楽しみいただくため/邪魔にならない程度の/さし障りのない会話をお楽しみいただく漫画です」というフレーズが出てくるが、これはそのまま「漫画」を「アニメ」に変えてアニメでも使われている。

 このフレーズは本来、女の子のかわいさを隠れ蓑として、シャレのきついギャグを展開している作品の姿勢を転倒させて語ることでネタにした、メタなギャグとして挿入されている。ところがこと、この<二階>のエピソードに関して言えば、さらにそこから転倒して、この言葉の通りの内容に近づいている。企画のレベルでいうなら、この二重の転倒を起こしている<二階>のエピソードにより、アニメは原作よりも「キャラもの」になっているのである。

 「企画」だけでなく、表現のレベルでも「キャラもの」へのシフトは起きている。

 というのも、会話中心でなりたっている本作の場合、アニメ化で付加される要素が自然と「キャラもの」らしさを強化することにつながっているからだ。具体的に要素を挙げると「声」と「フレーム」によって、各キャラクターの存在感が増しているのだ。

 アニメのキャラクターは、「記号化された図像」と「声を発するキャストの肉体」の中間領域で成立している。(この件は『男子高校生の日常』を取り扱った稿で検討した)

 マンガの場合、キャラクターがネタを言った場合、それはあくまでネタが情報として示されるだけだ。しかし、アニメになり音声としてそのネタが発せられると、ネタの情報に加えて、その音声の響きや音 色といった微妙なニュアンスによって醸し出される「キャラクターの生命感」とでもいうようなニュアンスが上乗せされる。

 マンガの場合、ネタはネタとしてしか消費できないが、アニメになって音声になることで、ネタの意味を聞かず、「キャラクターの声」として消費することも可能になるのである。

 ではもう一つの要素、「フレーム」はどうか。マンガはコマの大きさが自在に変化することがメディアの特徴といえる。それに対してアニメはフレームの大きさは変化しない。 原作は、あるギャグに対するリアクションを、小さめのコマにキャラのアップで描くことがある。アップではあるが、絵自体は小さいので、キャラクターの存在感はさほど強調されない。

 しかしアニメは、フレーム・サイズは変わらないので、たとえば原作と同様にリアクションとしてアップを入れると、キャラクターの存在感がどんと前面に出ることになる。アニメの場合、そうなることを前提にコントロールして映像にメリハリを持たせるわけだが、それでも全体的な傾向としては原作よりもアップの印象は際だつことになる。また、一つのフレームに5人全員を収めるカットも増えるので、そこにキャラクター間の関係性がにじみ出ることもある。

 ここまでアニメの『じょしらく』について考察してきたが、こうしたアニメ化により「キャラもの」になる(あるいは近寄る)という作品は『じょしらく』に限った話ではない。

  たとえば、いわゆる「日常の謎」を扱ったミステリー『氷菓』もまた、原作小説よりもぐっと「キャラもの」に寄ってアニメ化されている。『じょしらく』とは方向性がまったく違う原作ではあるが、そこにおいては、やはり「声」と「フレーム」という二つの要素は無視できない。

 逆に言えば、そこに『じょしらく』も『氷菓』もともに、アニメ化によって不可避に立ち上がる「キャラクター性」を、ジャンル(ギャグ、ミステリ)の枠を越えたポピュラリティーを獲得する目的で意図的に使いこなそうとしている――という共通点を発見することは十分可能だ。

文:藤津亮太(アニメ評論家/@fujitsuryota
掲載:2012年9月17日

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